変わった子供……
変わった子供?
たしか、いたな、そんな子が。
あれ、名前は……名前はなんだっけ?
覚えていたのに、思い出せない。
思い出してもすぐに忘れそう。
あの子の名前は……
「やめなさいあんずっ」
「あっ……」
どこからか聞こえた大声とほぼ同時に目の前が明るくなる。
まぶしさに一瞬目をつぶってしまうが、台所やテレビ、積み上げられた雑誌、ソファーの上に投げ出された新聞紙などから、
やがて、そこが誰かの家の中であることに気づく。
そこに立っていた二人の人物。
一人はまだ二十五歳くらいの、髪の短い若い女性。
もう一人はまだ四歳ほどの子供。愛らしいその目に恐怖を浮かべていた。
「あなたは、そうやっていつも私を困らせるのね」
その口調はとても強い。
「ち、ちがうの……」
少女は今にも泣き出しそうな表情をして、じっと相手の女性を見ている。
「ほらっその眼もやめて頂戴! 誰に似たんだか!」
「……ごめんなさい」
「なぁに?そのふてくされたような言い方……」
そして、女性は近くのテーブルにおいてあった厚い雑誌を一冊手に取り、素早くその少女に投げつけた。
雑誌は少女の顔に当たった。口が切れて少しの血がにじみ出る。
少女は少しよろけてから、女性を一睨みした。興奮した女性が息を切らせて言う。
「あんたなんか拾ってきたのが運の尽きだわ」
やがて電話の鳴る音が二人の間に鳴り響く。女性はため息をついて電話を取り、何か話し始めた。
その間、少女は床に落ちた雑誌を拾い上げ、静かに歩いてテーブルに戻した。そして、白い壁に手をぴったりつける。
それは一瞬のことだった。
少女の手が、顔が、お腹が、足が、次々と壁の向こう側へ吸い込まれ、やがて体は壁の向こう側へと消えた。
そうだ、思い出した。あの少女はあんずだ。
出会ったときもあんな感じだったかな。
……とと、あんずはどこに行ったのだろう。
必死に動こうとしてみるものの、体は身動き一つしない。
一体いま、自分の体はどうなっているのか?
(透さまっ)
ん?
(透さま、こんにちは)
あ、こんにちは
(透さま、秋乃です)
ああ、秋乃さん……
(いま、透さまの見ていらっしゃる世界は今から数十年前にさかのぼった世界です)
数十年前ですか……
(はい。あんず様は当時、八歳になられます)
え、八歳?
ずいぶんと幼く見えましたが……
(それは透さまもご一緒でしょう)
なっ、なんのことですか!
(あっ、すいませんっ。お姉さまからそのようなことを聞いていたのでつい……)
いいです。時子さんにも言われていますから
(はい、申し訳ないです……)
で、なんですか?
(はい、今の透様はあんず様の世界に生きているわけではありません。人が未来に存在できても、
過去に戻って存在できないように、あんず様の過去の記憶の中で、透様は存在することはできません。
では今の透様はどこにいらっしゃるかといいますと、簡単に言えばあんず様の中にいます)
あんずの中にっ!
つまりそれは一つの体に二つの心?
見えない二人羽織?
えっと……
二重人格?分裂?
(透様・・・何を想像していらっしゃるのか理解しかねますが、確かに透様はあんず様の体に眠る記憶の中にいらっしゃいます。
しかし、この記憶はあんず様がとうの昔にお忘れになった記憶です)
忘れた記憶?あんずは記憶喪失だったのか?
いや、その前に一つの疑問を解かねばならない。
あんずは、座敷童子ではなかったのか?
さっき見た風景はごく普通の家庭だった。人間の家庭だった。
じいちゃんの話を思い出す。あんずは妖怪ではなかったのか。
ああ、これはどこまでも試練なのだろう。
じいちゃんが一体どういう理由で俺にあんずの記憶を見せているのかわからない。試練と名をつけて俺に課すこと。
きっと、この試練が及ぼす影響など、何も考えていないに違いない。いや、そんなものはどうでもいいのかもしれない。
それはすべて、俺自身だけが知っていればいいことなのだろう。
(透様、来客のようです……わたくしは戻らねばなりません。でもご心配なさらず。透様はあんず様の記憶を追いかけるだけです)
はい、見ていればいいんですよね
(そうです。しかし、透様、これだけは。
どんなことがあってもあんず様に強い感情を抱いてはいけません。また話しかけてもいけません。
それは透さまがあんず様の過去に存在するという決定的な記憶になってしまいます。記憶は一本道。この先には現在のあんず様がいらっしゃいます。どうかお気をつけて……)
やがて、秋乃さんの気配はぷつ、と消えた。
耳鳴りに似た静寂が、自分の周りでぐるぐると渦巻いているように思えた。
しかし、その静寂はいつまでも俺の周りにまとわりついているわけではなかった。
気づくとそこは見覚えのある深い森の中であった。濃い緑のその隙間から、人影が見える。
意識を研ぎ澄ませ、視界からすべてのものを消し去ると、小さな嗚咽が聞こえてくるのがわかった。
泣いているこの声は、あそこから聞こえてくるのだろうか。
その声は、まるで森が泣いているようだった。
そして、ただ自分だけが何も知らず、その場で立ち尽くしているようだった。
見えない場所から無力感をぐいぐいと押されている気がして、ふりほどこうと試してみるものの、実体のない今の俺では何もできようがなかった。
「……すん、ぐすん……」
泣き声はやまなかった。
森に棲む木々たちがそよそよと呼びかけても、何も変わらなかった。
闇の足音はなんとも早く訪れた。
いつのまにか泣き声は聞こえなくなっていた。そして、そのかわりに大人と思われる声が静かに聞こえてきた。
「わたし、もう我慢できません」
「そんなこと……いまさら言ってももう遅いよ。それに、かわいいじゃないか」
「かわいいですって?」
どうやら最初見た場所に戻ってきたみたいだ。ただ、あんずの姿は見えない。
テーブルをはさんで女性と男性が椅子に座っている。おそらく夫婦だろう。
「あなたは普段家にいないからそんなことが言えるんだわ。見たことある?気持ち悪いったらありゃしない。
昼間だってわたしの目の前で壁に手を入れていたのよ? まるで水の中に手を入れるみたいに!」
怒りくるったように口から言葉を飛び出す女性とは対称的に、男性はにこやかに笑って言う。
「ははは、普通の人間の子供がそんなことできるはずない。あるいは壁に穴でもあいていたのかな? ん? どこだ?」
「いい加減にして……わたしがおかしくなったっていうの」
「普通に考えればそういうことにしておくしかないだろう。わかった、明日はあんずの面倒を見ておくからお前は休んでいればいい。それでいいか?」
しかし、女性は首を横に振っていやよ、と言った。男性は下を向き、呆れてため息をつく。
「……じゃあどうすればいいんだ?」
「捨ててきて頂戴」
男性が驚いて女性の顔を見る。
「なんだって?」
「あの子がここに、二度と帰ってこられない場所に捨ててきて」
「……できるわけないだろう」
「そう」
すると、女性は静かに椅子を引いて立ち上がり、足音も立てずに隣の寝室に入っていった。
男性はその静けさに不気味なものを感じ、その場から動けずにいた。
しばらくして部屋から出てきた女性はジーンズのジャンパーを羽織っていた。
「どうしたんだ」
「あなたができなくてもわたしはやるわ」
「何を」
「捨ててくるの」
「!」
男性は慌てて椅子から立ち上がった。強く引いたので椅子が床に倒れ、部屋中に大きな音を響かせた。
やがて、その音が合図だったかのように、奥の部屋から少女……あんずが出てきた。
あんずは無言で歩いて二人の距離の中点に立った。
その振る舞いは幼い少女と思えぬほどだった。そして、無表情で問うた。
「わたしを捨てたいの?」
冷酷な口調。冷たい目。いつものあんずからは到底考えられない。
その様子は人間ではない、そう、まさしく妖怪の者の気。あんずは妖怪であった。
二人の人間は言葉が見つからずにただ立ち尽くし、あんずを見下ろしていた。
「違うよ、あんず」
「……」
女性は先ほどまでの気迫も失せ、何かに脅えているようだった。もはや言葉を口にするのも、し難いほどに。
長い沈黙が続いた。
息を吸って唾を飲む、そのわずかな音すら会話になりうる。
外で鳴った車のクラクションにびくん、と体を震わせ、無音を破る冷蔵庫の運転音に安堵感を覚える。
誰かがしゃべりださなければいつまでも続くような沈黙の世界がそこにあった。
そして、その世界は以外にも第三者によって壊されることになった。
ぴんぽーん
狭いマンションの一部屋に響き渡るチャイムの音。
脅えて、その場から動くことさえできなかった女性の足が、解き放たれたように自然に動いた。
「は、はーいっ」
われ先にと、驚くほどぱたぱた玄関のほうに走り出す。
男性もその様子を見てたまらなくなったのか、女性のあとについて歩いた。
居間には、あんずだけしかいなくなった。
どうやら宅急便の荷物だったらしく、玄関ではその受け渡しが行われているようだった。
あんずはその様子を目で追うわけでもなく、そっと壁に向かって歩き出した。
そして前みたいに壁に手をぴったりつけ、足から入ってお腹が入って……そして、顔が吸い込まれようとしたとき、少女は一言つぶやいた。
「ばいばい」
二人が荷物を居間に運んできたときにはもうあんずの姿はなかった。その場に立ちすくむ二人の姿だけが空間を満たしていた。
透様……あんず様の記憶はここで終わっています…………。
俺はその温かな声を聞いてすっ、と視界に幕を下ろした。
やがて、離れていた意識が自分の体に戻るのを感じた。その瞬間、秋乃さんのにこやかな表情をうっすらと開けた目で見た気がしたが、
疲れのせいか、俺はそのまま眠りに落ちてしまった。
「桂さん、これを……」
「どうした、さら」
「これを見てください」
そのとき、屋敷でも妙なことが起こり始めようと……していた……。
「ふむふむ……これか」
「はい」
さらの指差す先にあったもの。それは。
「蟻塚だ」
「蟻塚です」
「さらが作ったのか?」
「お手伝いはしました」
「そうか……」
「はい」
「立派だ」
「はいっ」
「うわあ何だこれーっ!」
ばったーん
洗濯物を取り込もうと庭に出てきた時子が、叫び声をあげて倒れた。
「あらぁ時子さん・・・」
「何を驚いているのか」
「ぎゃーっなにそれーっ!」
ばさばさばさ
縁側で本を読もうと部屋から出てきたあんずが、叫び声をあげて本を落とした。
「蟻塚ですよ」
「蟻塚だ」
「あ、蟻ぃ……?」
「すごいですよね、ね」
あんずはジト目でさらに言い放った。
「きもちわるっ」
鳥居の奥のこちらの屋敷では。
「……さて」
秋乃は眠りについた透に、所々つぎはぎのしてある布団をかぶせると、ゆっくり姿勢を直した。
「お客にその布団はどうかと思うが」
「仕方ないですわ、いつもわたくし一人で寝ているのですもの。これしかないのです」
「まあ、それもそうか」
「ところで……」
秋乃は闇の中から聞こえる声の方向へ、にっこり笑って話しかけた。
「お姉様もお客様ですよ」
「忘れられたかと思ったよ」
ろうそくの光に目を細めながら、両者は向き合う。
「お元気でしたか?」
「我が妹は元気のようだな」
そのとき、ひゅうと窓から風が吹きこぼれて、ろうそくの火は消えた。