座敷童子

第二十四話 「和解」(前編) 

鳥が、大空に向かって哭いている。いつもは景色の中の一つであるそれなのに、その日の朝だけは驚くほどにはっきりと際立って聴こえていた。
身を起こして、屋根裏部屋唯一の光のもとへと手を伸ばす。
すっかり古くなっているカーテンをあけて、俺は思わず呟いた。

 

「すご・・・・・・良い天気」

 

真っ青などこまでも透明な空よりは、雲が転々とした空のほうが好きだった。
千切れながら揺れる白い雲が、空に少しずつとけて、やがては消えていく。
ずっと、ずっとあの空を見続けて、たまにちょっとした考え事なんかしたりして、そうやって・・・

 

「とーるーっ!」

 

耳をつんざくような大声と、背中にはしった衝撃に、考え事はあっさりと中断された。

 

「あんず、お、おも……」
「とーる、いつまで寝てんのかって、かっちゃん怒ってたよッ」

 

だいぶ助走して飛んだらしい。
あんずは俺の背中にがっちりと掴みかかっていた。
さらに後ろから両手をまわし、俺の首の辺りをぽかぽかとたたいてくる。

 

「はやく朝ごはんーーー!」

「たたた、わかった、わかった、ちゃんと行くから吐く吐く吐く吐く」
「いまーっいますぐー!」
「はいはい、今すぐ今すぐ、だがら降りでーーっ」

 

うぎぎぎ、と苦しそうな声をオーバーに出すと、「もうー」と呟きながら、あんずがしぶしぶと身を離した。



「今日はかっちゃんとお出かけするんでしょー!?はやくはやくーっ」
「はいはいはい、行きます行きます」


毎夜、寝る前に布団の横に用意している着替えを取り、ばさばさと着替え始める俺を堂々と直視しながら、あんずがポツリと言った。


「何しにいくか知らないけど」
「ん?」
「男二人で……何するんだかー!!
「どわっ!? 何が!!??!」

 

突然の叫び声に思わず、着替えの手を止める。


「しらねー!!」
「なになに!?なに怒ってんのこの子!!!?」
「うっせえー!いただきます!!!」
「いただきます!!?」


ここでご飯の挨拶されても、というツッコミを入れる前に、あんずはドカドカと一階へ降りていってしまった。

(なぞだ……!!!!)

 


一階に下りると、さらさんがニコニコしながら「おはようございます」と挨拶してくれた。
手にスコップとバケツを持っているので、何かと尋ねてみると、んふふふふ、と笑っている。

 

(蟻か……蟻なのか!!!!?)

 

結局、さらさんが外でなにをしていたのか謎なところだが、二人で居間に入ると、すでにじいちゃん、
あんずが食卓についていて、時子さんがお茶を淹れていた。

 

「あ、きたきた、ご飯にしましょ」

 

それからはいつもと変わらない朝食の風景だった。
たわいもない話をしながら、時子さんの作った料理をひとつずつ口に運んでいく。

今日の朝の献立は、鮭の塩焼き、玉子焼き (時子さんのは真っ赤)、生卵(じいちゃんのみ)に、
裏の庭でとれた三つ葉と豆腐のお味噌汁。真っ白なご飯に時子さん自慢のお漬物。

 

「時子さん、ホントにどこで料理ならったんですか?」

 

ほう……と感心して言う俺に、時子さんはあきれたような口調で言った。

 

「母さんからよ。ああ、母さんって言ってもあっちじゃなくて、こっち。あれ?この話って透はもう知ってるんだっけ?
まあ、じいも一応料理はできるみたいだけど、かなり偏っていたし」

「ははッ・・・…」

「母さん……こっち……って、ええと……」

「透くんのおばあちゃまのコトよ。あたしたちは ”母さん”って呼んでいたの。いや……呼ばされていたのよね。
母さんからだいたいのことは教えてもらったわ」

「なるほど。それで、こんなに美味しい料理が作れるんですねっ!」

「あっはっはっ!そおかしらん?」

 

すると、じいちゃんが食べる手を止め、真剣な顔をして言った。

 

「時子は透子から基本はならっていたんだよ。洗濯の基本、掃除の基本、料理の基本。
だがそれ以上は自分で知れと言われていてな。料理の詳しいレシピやコツは教わっていないんだ。
それなのにこうやって旨い料理が作れるのも、まあ、才能なんだろうなあ……」

 

じいちゃんがうんうんとうなずきながら味噌汁をすする。
時子さんは心なしか顔を赤くして「なにいってんのヨッ、気持ち悪い」と呟いた。

時子さんは、きっとものすごく勉強したんだろう。時子さんの部屋に入ったことはないが、
本棚に無数の料理本、雑誌、ビデオが並べられていて、それぞれの本には付箋、赤丸、折り目なんかがあるはずだ。

ずいぶんと熱心に研究したに違いない。料理なんて勘だけでできるものじゃないはずだ。

 

「勘よ」

「!!」

「さて、ごちそうさま」

 

一番先に食べ終わったじいちゃんが、ゆっくり立ち上がって茶碗を流しへと運んでいく。
そしてこちらに戻ってきて俺の肩をたたき、「9時に玄関に集合」と言った。
俺は「はい」と小さく返事をして、最後の漬物を口に運んだ。

「あたしもごっちそうさまーん」
「とーるさん」
「はい?」

 

さらさんが、なにやら心配そうな顔をして言う。


「桂さんとどこかへおでかけなのですか?」
「ええ、まあ、あの、……らしいです」
「らしいですか」
「らしいです」
「……ミステリーツアーなのですか?」
「いやっ、そういうわけではないです」

食事のシメに、とお茶を口の中に流し込む。
すると時子さんが台所から布巾を手でぐるぐる回しながら歩いてきて言った。

「透くんは、じいと女の子二人を連れてウハウハグループ交際なのよ」

ぶはっ!!

「時子さんっっっっ!!!!なんですか、そのグループ交際ってっ」
「汚いわね…」
「ごちそうさまっ」
「あっ、あんず、ちゃんと茶碗は水につけなさいよ」
「へいへいへい」
「私も、ごちそうさまでした〜」

あんずに続いてさらさんも、茶碗を流しへと運ぶ。

「あんずちゃん、とーるさん、ウハウハですね」
「ねーっ」
「聞こえてるよ二人とも……」

「まあまあ、グループ交際だかなんだか知らないけどさ、がんばんな!」

「違いますって!」

 

どうしてこう、この人たちは話をヘンな風によじるのが好きなんだろうッ。
そんなことを考えながら、じいちゃんとの約束の時間まで暇をつぶす方法を考えていた。

 

縁側に腰をかける。ふと足元を見ると、蟻が一匹歩いている。
よし、暇つぶしのターゲットはこれだ。

 

(問題。これは、さらさんの飼っている蟻か、野生の蟻か)

 

「うーむ……」

 

さらさんが飼っているからといって、特に飼育ケースがあるわけではないし、蛙みたいに背中の模様で見分けられるというわけでもない。
ましてや首 (?) に猫や犬のような首輪をつけることなんてできないし、動きや体形でそうとわかるはずもない。
それではどうやって、さらさんは野生のものと自分の飼っているものを区別しているのだろう。

「野生の蟻さんは、全部私の蟻さんですv」

 

なんて笑顔で言われた日には敵わないのだが…
新たにやってきた蟻と、先ほどの蟻を見比べてみても、全く違いがわからない。
それどころか、どっちがどっちだかわからなくなってしまった。
やはり、これはさらさんに聞かないとわからないということなのか……

 

「透くん……それは何かの勉強なの?」

「ひゃっ!!」

 

横にはいつのまにか時子さんが座っていて、俺の顔をジッと見ていた。

 

「い、いつから!?」

「ついさっきだけど……洗い物終わって縁側見てみたら透くんが深刻そうに俯いてたからさ、何か悩んでるのかと思って」

「い、いえ、ちょっと蟻を」

「……蟻」

 

時子さんがジトーと変な目で俺を見た。

 

「蟻ねえ……」

「いやっ、あっ、あはははは!」

「まあ元気みたいで何より!」

「俺はいつも元気ですよ」

 

すると時子さんはフフフ、と笑って立ち上がった。

 

「ねえ……透くん」

「はい?」

「あたしはさらと違って百年も生きているわけじゃないし、あんずみたいに年がとらないわけでもない。
透くんやじいみたいに若返るわけでもないわ。普通の人間よ」

「そうですね」

「だからさあ……」

 

時子さんの目が細くなる。

 

「みんなより先に、居なくなっちゃうんだよね」

「…………時子さん」

「ふふ、深く考えないで、透くん。ほら、裏を返すとさ、みんなと死ぬまで一緒ってことじゃない?
それってイイよねー!結婚して誰かと一緒にならなきゃ老後が寂しいわなんていう心配要らないし、
まあ…じいは…あたしがおばあちゃんの頃にはおじいちゃんに戻ってるかもしれないけど、透くんはきっと若返っているはずだし」

 

明るくそう言う時子さんを見ていると、なんだか胸が締め付けられるようだった。
この家の中で唯一、まっとうな人生を送れるはずの人間。
どこへ行っても生きられるであろう人間。
だけど時子さんは、ここに住み続ける事を願うのだろう。

 

「だから、あたしがここでできることをするのよ。それが家事なの」

「……はい」

「うん。そう。そうなのよ」

 

時子さんは自分を納得させるかのようにうんうんとうなずいた。
なぜだかわからないけど、俺もつられてうんうんとうなずく。

 

「よし、洗濯してくる」

「はい」

「透くんも、そろそろ支度したほうがいいわよ」

「あっ……」

 

時計を見ると、もう約束の時間まで少しといったところだった。

 

(いつのまに時間が過ぎていたのか……)

 

俺は時子さんと一緒に廊下へと出て、いってきます、と手を振った。
時子さんは笑顔で「おみやげヨロシク!」と言って、洗濯物を回収し始めた。

玄関を出てみたはいいが、じいちゃんはまだ来ていないらしかった。
かわりに、そこには二つの人影があった。

 

「おはようございます、透さま」

「……おはよう」

 

紫蘇さんと秋乃さんだった。俺は軽く会釈をする。
紫蘇さんはいつもの巫女装束ではなく、着物を着ていた。
着ているものだけで随分と印象って違ってくるものなんだなあ…と、俺はつい紫蘇さんをじっと見詰めてしまう。
そして、左手に握られているものに気づいた。

 

(紫蘇さん、いつも弓を持ち歩いているけど……まさか今日もとは…)

 

自分は狙われないだろうと思いながらもやはりビクビクしてしまう。
とりあえず考えるのをよして、秋乃さんを見る。秋乃さんは、というと、やっぱりいつもと違う装いで、こちらも着物だった。

姉妹で着物…和な姉妹…和風美人ッ……
これは強烈なタッグだ……

 

「透……妙な目つきになっているが」

「はっ、いえ、二人ともおはようございます」

「ふふ、元気そうで何よりです。疲れがまだ取れていないのではと心配したのですが……」

「そりゃあ疲れただろう。あんなボロ家で寝かされてなあ。お爺様も罪なお方だ」

「紫蘇ぉぉぉ」

 

声にハッとして振り返ると、そこにはじいちゃんが立っていた。
片手に桶、片手に花を持っている。

 

「透、どちらか持て」

「あ、はいはい」

「紫蘇」

「はい」

「今日は天気が良くてよかったな」

「ええ」

「来てくれて、良かったよ」

 

紫蘇さんは無言のまま口元に笑みを浮かべた。

 

そこからは、二列に分かれて山の中を進んでいく。
俺と、じいちゃんが前で、紫蘇さんと秋乃さんが後ろだ。
時たま俺の後ろから紫蘇さんと秋乃さんのクスクス笑いが聞こえてくる。

 

(なにを話しているのだろう……)

 

抗えない運命の中にあったって、二人も年頃の女の子なわけで。姉妹なわけで。
こっそりと耳をそばだてていたのだが、やがてじいちゃんによってさえぎられてしまう。

 

「透、今晩は一緒に酒でも呑むか」

「はあ……はっ!?」

「まあまあまあ、言いたいことはよーくわかる。だがそうかたくなるな」

「いやいや、犯罪ですよ、法律ですよ」

「なっとらんなあ!」

「ナニガデスカ」

「人間がだよ」

 

どっちが…と思いながら相槌を打つ。

 

「まあ酒は時子と呑むからいいとしてもなあ……透と男の夜を過ごしたいんだがな」

「は?」

「……」「……」

 

その場に居た3人が沈黙の闇に閉ざされる。

 

「って、紫蘇さん、秋乃さん……!」

「いや、私は別に」

「そういうことはよくあるのですか?」

「何が!?何がッ!?」

「いや、だから私は別に」

「お爺様と透さまが」

「イヤーーーーッ!!」←透

「何騒いでるんだ」

「じいちゃん、イヤァァァァッ!」

「は!!?」

「不潔!」

 

じいちゃんは取り乱す俺のことをジトと見て、やがて言った。

 

「……行くぞ」

 

スタスタ歩きだすじいちゃん。
紫蘇さんと秋乃さんもぐいぐいと俺の背中を押した。
そして、紫蘇さんが俺の耳もとで小さく囁いた。

 

「まあ、たまには晩酌に付き合ってやってくれ」

「ああ見えてお爺様は奥様を亡くされて寂しいのですよ」

「あ……は、はいっ」

 

戸惑いながらも返事をすると、紫蘇さんと秋乃さんはニコリと笑った。
俺はじいちゃんの元まで駆け寄り、再び歩き始めた。

 

 

その――――
楸、さんの……楸伯父さんのお墓というものを、俺はもっと立派なものだと勝手に想像していた。
だが、じいちゃんたちが進むのは、もっともっと山の奥で、どんどん道がなくなっていき、足元がおぼつかなくなる。

そんな道なき道に慣れていなかった俺は、何度も転びそうになりながら近くの木の枝に掴みかかったり、
後ろに転びそうになったところを紫蘇さんに支えられたりと、なんとも情けない様子で進んでいった。

 

(本当にこの先に目的の場所があるのだろうか?)

 

ふと、頭の中にイヤな妄想がよぎる。
もしかしたら四人で心中!?俺以外の三人に何があったか知らないけど、とりあえず木隠の血から逃れるためとか!?

ああああ、来るんじゃなかった、来るんじゃなかった。
よく見れば、みんなだんだんと深刻な顔つきになってるし、もうなんというか…し、死相が……

そう考えたとき、足元がガクンとゆれた。

 

「透さまっ!?」

「またか、しっかり歩け」

「なーにしてるんだ、透。行くぞ」

「あ、ああ……」

「私がおぶってやろうか?透」

 

紫蘇さんがどこか悪戯ッ子のような表情をして俺にいう。秋乃さんは戸惑う俺の顔を見てクスクス笑っている。

 

「い、いやっ、大丈夫ですッ」

 

服についた土や草を払って再びじいちゃんのところまで駆け寄る。
じいちゃんはさっきと変わらず、りりしい表情で黙々と歩いていた。

 

(いやあ…よく考えたら、このメンバーに限って心中なんてないか……)

 

ふーっ、と息をついて今度は転ばないように地面をしっかり踏んで歩く。
ふと、じいちゃんの顔の前に大きな蝶がひらっと舞った。都会ではみたことのない蝶だった。

 

「を!!?」

 

珍しくじいちゃんは大声を出して驚き、身を後ろにそらせる。バランスの崩れた足元がゆれて、土の上を滑っていく。
右足を後ろに引いてなんとか倒れることだけは止める。その運動神経はさすがともいうべきか、キレがあった。

だが、そのとき、じいちゃんの着物の胸元から、銀色に光った、何かが、落ちた。

 

「あ、じいちゃん、なんか」

 

土の上に転がるそれを拾おうとして、俺は思わず手を震わせた。
それは遠目にも間違うはずのない……

 

「こ、小刀!?」

「あ、すまない」

 

俺が拾おうとしていたのより早く、じいちゃんはその小刀を拾って胸元にすばやく仕舞った。

 

「じいちゃん、それは……」

「行くぞ」

 

小刀、小刀!!?

じいちゃんは家の中では小刀など持っていなかった。当然といえばそれまでなのだが、
それでは外に出るときはいつも小刀を持ち歩いているのだろうか。

いや、それはあまりに物騒だ。それとも、山の奥に踏み入るときに邪魔な雑草や枝を切るためのものだろうか。

 

いや……

 

俺の脳裏に描かれていたのは、心とは裏腹、ハラキリの場面だった。

 

「やっぱり心中―!!!!」

 

思わず出した大声に、後ろを歩いていた二人がビクっとする。

 

「さっきからなんなのだ、透はっ」

「透さま、お疲れですね」

「じじじじじいちゃ」

 

慌ててじいちゃんを止めようと肩に伸ばした手は見事に空を切る。
じいちゃんは俺たちのほうに軽く目線をやって、言った。

 

「着いたぞ」

 

じいちゃんが立ち止まった場所から五メートルほどの場所。
そこには、恐ろしいほど大きく聳え立つ樹があった。樹の種類などは関係なく、ただその樹がその樹であること、
それだけが存在している理由のような、そんな雰囲気を醸し出していた。

無数にのばした枝と、静かに揺れる葉。
その樹の下には、月を重ねてすっかり形を無くした花と思われるものが、散らばっていた。

 

 

「じいちゃん、着いたって……」

「楸の墓だよ」

 

どうみても、そうだった。
この場所にはお墓だと思えるものがない。この樹だけが、圧倒的な存在感を放っていた。
そこにたとえ目印がなくとも、それはなぜか一瞬にして理解できた。

 

「私もあの時のことはよく覚えていない」

 

紫蘇さんが一歩前に出て、俺と並ぶ。
長い髪を風の流れに任せて、その樹を見つめていた。
やがて、ゆっくりと目を閉じて手を合わせた。俺も、それに合わせて目を閉じる。
きっとじいちゃんも秋乃さんも同じことをしていたと思う。

ふと、目を閉じている間、自分の踏みしめているはずの地面がどこに存在しているのか、わからなくなった。
ここは自分が生きていた世界なのか、それともどこかで扉をあけて、まだ見たことのない隠り世に至ってしまったのではないだろうか。

隣にいたはずの人は、まだそこに立っているのだろうか。
もし、目を開けて自分ひとりだったらどうすればいいのだろうか。

 

―――あの感覚に似ている。

秋乃さんに連れられた鳥居の前。

踏み出す足が震えていた。知らない世界を畏れていた。何か禁忌を侵すようなその一歩。

足を下ろした先は、地か、それとも無か。

 

誰かが沈黙をやぶらなければ、自分はこの閉ざした目を開けられない。
鳥の声でもいい、風の音でもいい、何かが、誰かが目を開けなければ……

 

かすかに声が聞こえた。

その声は暗闇の中にだんだんと光を帯びて、やがてこの耳にしっかりと届いてくる。

紫蘇さんだった。

 

「父様が死んだ時のこと、私はよく覚えていない……。弓を受け取って、それから父様は……
父様は…父様がどうやって死んだのか、私にはわからない。本当に死んだのかさえ、……わからない」

 

紫蘇さんは、ぽつりぽつり、話し始めた。

 

「ぽっかりと記憶が抜け落ちたように、夢なのかと…。……朝起きたら父様がいなくて、どこにもいなくて……
ただ残されたのはこの弓だけ、父様は……私に…それ以外には、なにも……着物も、本も、残してくれなかった……」

 

そう話す紫蘇さんの声は、どこか震えていた。

 

「紫蘇、あとは私が話す」

「いえ……」

「しかし」

「透」

 

紫蘇さんが不意に俺の名前を呼んで、こちらに視線を投げた。
その美しい緋の目が悲しく揺れていた。

 

「木隠一族がどんな運命を辿ってきたかは、もう…わかっていると思う。お前だってやがてはその血に逆らえず、
先祖たちと同じ生き方をする。そして、同じ終焉を迎える。

だが、あまり悲観しないでほしい。これは、先祖たちが人間と自然が共に生きようとした結果にたどり着いた答えなのだ。
私たちはこれを誇りに思っていい。わかる?」

 

俺は、小さくうなずいた。

いまは、紫蘇さんの悲しい目に心を掴まれた様に動けなくなり、そうするしかできなかった。
そして、紫蘇さんは言った。そのときの横顔が見せた遠い目は、今も忘れることができない。

 

 

「木隠、とは……木と共にあるが故に、木に隠されて生きるしかないのだ」

 

 

きっと、その血がなければ紫蘇さんのお父さんは苦しむはずもなく、悩むはずもなく、人間の住まう地に降りていたかもしれない。

人と、自然が共に生きるには、もうどちらかを捨てなければいけないという状況になってしまったのだ。
過去の人々が自然の中で暮らしていた頃とは、かわってしまったのだ。

人間として生きれば苦しさに悶え、妖怪として生きれば人間が恋しくなる。憎らしくなる。
二つに分かれたと思っていたはずの道は、その先でひとつに繋がっている。

 

その強制された人生の翳りを、どうして何事もなかったかのように過ごせるのだろう。

ごまかすことはできない。

目をそらすことはできない。

過去の縛りから開放されることは、永遠にない。

 

そのときだった。
視界が大きく揺らぎ、強い風が吹いた。
木に止まっていた鳥たちが一斉に羽ばたき、真っ青な空がぐらりと歪んだ。
不気味な空気に包まれた景色は、次第に色を落として消えていく。


そこは、目を開けて見る暗闇の空間。

 

「じ、じいちゃんっ、紫蘇さん、秋乃さんっ」

「透、しっかりしろッ」

 

紫蘇さんが俺の手を握った。強く握った。
やがて暗闇の奥底に、更なる闇へと続く淀みの影が落とされているのに気がついた。

間違いない。

証拠も根拠もない確信が、脳内に流れ込んでくる。それは自分で理解したというよりは、誰かによって理解を無理やり押し込められているといった感覚だった。
だが、俺がその名を口に出すのは、はばかられた。

 

「父様なのですね」

 

紫蘇さんは俺の手を強く握ったまま、そう口にした。

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