手が小さく震えている。最初は自分かと思ったが、そうではない。震えているのは紫蘇さんのほうだった。
俺は、どこからくるともわからない強気な気持ちで、その手を握り返した。
震えないように。
「父様、父様」
その深い影に向かって何度も紫蘇さんは叫び続けた。
秋乃さんとじいちゃんは、そんな紫蘇さんをただじっと見つめていた。
「父様、父様ぁ……」
声がかれても、なお、紫蘇さんは呼び続ける。
やたらと時間の経過が長く感じられた。
「父様……父様……とう…さまぁ」
いつもの気丈で冷静な紫蘇さんは、もうどこにもいなかった。
それはまるで、幼い女の子が迷子になってしまったかのような、悲痛の呼び声だった。
不安と、恐怖と、焦りと、孤独。
その声に、人の弱さがこめられていた。
影が大きく揺れる。そして、その影は蠢き、形を歪ませながら、かろうじて人の姿になっていく。
ゆらゆらとさわぐロウソクのように、その場にたたずんでいる。
その頭と思われる部分から黒い玉のようなものが幾つも吐き出され、俺たちの前に散らばる。
俺たちは、その不気味な光景をじっと見ていることしかできなかった。
やがて、玉の一つ一つが互いに引き寄せられ、足、手、首、頭……目の前ではっきりとした人間の形になった。
言葉が出なかった。
それは、幽霊ともお化けとも言いようのない、確かな形を持った人間だった。
話を聞いただけで顔をみたことはない。だが「楸」と呼ばれる人であることに間違いはなかった。
長い沈黙を破ったのはじいちゃんだった。
「これは結構なご挨拶だな」
しかし、楸さんは何も答えなかった。
何も答えない代わりに、ゆっくりと紫蘇さんの顔に視線を合わせた。
「父様」
そして、紫蘇さんも目線をそらすことをせずに、ただ懐かしいその「父」を見据えていた。
秋乃さんは何を見るでもなく、ただ俯くばかりであった。
どのくらい、その時間が続いたのだろうか。
1分か、1時間か。
風も、鳥も、木々も何も言わないその暗闇の空間で、見えるものだけが頼りのその世界で、それぞれは何を考えていたのだろう。
紫蘇さんと楸さんは、互いに目を合わせたまま、そこから動こうとはしない。
二人にとって、言葉を交わし、会話することは必要ないようにさえ感じられた。互いが互いを理解しあっている。
言わずともここまでどんな思いで、どうすごして来たか、知っている。
やがて長きの沈黙を経て、その影、「楸」は何か言葉を吐き出した。
しかし、誰もその言葉を聞き取れず、ただ黙りこくる。
さらに、「楸」は、間をおかずに何度も言葉を繰り返した。その口の動き、かすかに聞こえる声、
一番初めにその言葉の意味を知ったのは、おそらく紫蘇さんだった。
「父様」
「…………せ」
「なにを、仰っているのですか」
「……で、……せ」
「わたしの?……」
「その……で、…ろせ」
そこまで聞き取って、俺はようやく言葉の全貌を知った。
―――その弓で、殺せ
その言葉からは間違いなく殺意が感じられた。背中を冷たい風が通り過ぎていく。
ひやりとした汗が額を、頬を、そして喉を伝う。震えた腕が自分の意志で動かない。動かせない。
握った紫蘇さんの手は、いつのまにか落ち着きを取り戻していた。
情けない、震えている。自分が震えている。強気なことを考えて、怖くない振りをして、一番自分が震えている。
おびえている。情けない。情けない……!
じいちゃんも、秋乃さんも、驚きを通り越した表情をしているに違いない。
自分は?自分はどんな表情をしている?
畏怖のあまりに凍り付いて表情も何もなくなってしまっているかもしれない。
「父様」
「ころせ」
その会話は、かみ合っているのか、いないのか。
一度言葉を発した「楸」は、その言葉だけを繰り返し続けた。
「父様、いずれ、それはちゃんと…」
「ころせ」
「なかなか時子の隙がなくて、私も、それは、……しかし父様」
「ころせ」
時子―――
時子さんは、紫蘇さんに命を狙われている。
父である「楸」の人生を変えてしまった時子とあんずの存在。
「父様……」
「ころせ、はやく」
「……」
「はやく、ころせ」
「…わかりました」
紫蘇さんはそう言って小さく頷いた。
右手に握っていた俺の手を、左手で持ち、自分の手から離す。そして、「ありがとう」と言って立ち上がった。
「紫蘇さん」
それは、やっと出た自分の声だった。
紫蘇さんは弓を片手に俺を見た。
「父様のために、こうしなければいけないのだ」
悲しい声。
緋の目が揺れる。
やがて「楸」に向かって足を踏み出す。
そのときだった。
「わたしを、ころせ」
一際低い声で。
はっきりとした声で。
「楸」は確かにそう言った。
「なに……」
紫蘇さんはその場で歩みを止め、父に問うた。
「なんと……?」
「紫蘇が、わたしをころせ」
「この弓で父様を、と仰るのですか」
「ころせ、はやく」
「父様、どうなさったのですかッ」
声を荒げて、紫蘇さんは「楸」に駆け寄った。
実体はやはり、なかった。紫蘇さんの伸ばした手は空を切って重力に引かれて行く。
「この弓は父様が、私に遺志を託して渡されたものです。それで父様を、など…!」
「それでだからこそ」
「いやです」
「紫蘇」
「いやですっ」
「ころせ」
「私はモう限界だ」
それは、いままでぽつりぽつりとした単語しか口にしなかった「楸」の言葉だった。
それを期にして、
「楸」はどこか口調がたよりなかったが、ゆっくりと話し始めた。
自ら命を絶ったとき、もうこれで苦しみは終わるのだと信じていた。
無の世界にいくことで、何のしがらみにも囚われることなく、木隠の運命に悩むこともなくなるのだろうと。
ただ妻のもとに行きたかった。
この世界から逃げ出したかった。
紫蘇に後を任せ、秋乃を妖怪から守り、私は永遠に木へと隠れるつもりだった。
だが、浮遊したこの世への恨みは消えず、いつまでも漂い、姿を変え、時には人間に乗り移り、
生きていた頃の思いを継いで彷徨った。止められなかった。
そして、楸さんは「透くんとも一度会っている」と話した。
修学旅行先での旅館。あんずの母と名乗る仲居さん。あれは自分だったと。
惑わしたい。かき回したい。運命をぐちゃぐちゃにしてしまいたい。
誰もが皆、悩んで迷って引きこもって死んでしまえばいい。
そうあることが自然な世界になってしまったのだから、それで誰も不思議に思わない。
こうしたのは人間のせいなのだ。
自然に歯向かったが故の報いなのだ。
私たちが生きられなくなったのはそのせいなのだ。
「だが、もうそれも疲レテしまっタ」
「父様…」
「妖怪も人間も、私たちのような者モ、等しい世界ニ生きるべきダッた。私はそれヲ受け入れるまデ、何年かかったというノだろウ……」
「……」
「私ガ自分の意思で私を止めていらレるのハ、わずかな時間シかない。その私が託しタ弓で、私をころしてくれ」
「いや、です」
紫蘇さんは泣いていた。
嗚咽をこらえて、泣いていた。
(女の子が泣いているとき、俺はどうすればいいんだろう)
俺はぼんやりとそんなことを考えていた。
今まで
近くに女の子と呼べる存在がなかった。
姉の佐保子は年頃になってからというもの自分の前では泣かなかった。
それより、
小さい頃は俺のほうがよく泣いていて、姉に慰められていたこともしばしばあった。
「父様ぁ……」
「もウ、お前も…私のあとをツぐことなど、シなくてイい。秋乃も、鳥居のナかにイることナなど、しなクテイイ」
楸の発する言葉は、どんどん色を無くしていく印象を持たせるもので、薄れてはかすれていく。
時間は迫っていた。誰もが直感で、そう感じていた。
「だカラ、私ヲ」
「……」
「それガ、私の願う幸セなのカモしれないのだカら……」
「……」
「お願いダから」
紫蘇さんは息をころして、嗚咽を止めた。顔をまっすぐ「楸」に向けて、弓を構えた。
「紫蘇さん…!!」
「お姉さま…」
凛としたその姿勢、表情。暗闇の中にあってもまばゆく映るその姿。
自分の手で父を討つなど、なんて皮肉なやり方なのだろう。
ただ、それが楸にとって、そして、紫蘇さんにとって、与えられた最後の試練かもしれなかった。
紫蘇さんは息を吸って、ゆっくりと矢を引く。
手を放したら、戻れない。父は、今度こそ二度と目の前に現れることはない。
「父様ッ… …」
紫蘇さんの手が、矢から離れた。
弓は暗闇をまっすぐに突き進んでいき、大きな影に突き刺さる。
実体のないその影に突き刺さった場所から、光が漏れた。
光はしだいに暗闇を消し去っていき、そこにあらわれたのは数時間前にみていた、大きな樹の姿だった。なんとも、あっけなかった。
そよぐ風の音と鳥の声にまぎれて、
「ありがとう」
「楸」のつぶやきが、聞こえた気がした。
紫蘇さんは、その場にぺたんと座り込んだ。
左手に持っていた弓は、いつしか姿を無くして、一枚の葉となっていた。
紫蘇さんはその葉を見て、ただ泣き崩れるばかりだった。
秋乃さんがそっと近寄り、背中を丸めて小さくなった姉の肩を抱いた。
そして、全てを吐き出すかのように、紫蘇さんが話し出した。
――― 私は、憎らしかった。
父と母はもうこの世にいなく、妹は隔離され、自分は孤独な世界で生きる。
頼りは実祖父であるお爺様だけ。家が少し離れていても、お爺様は私のお爺様。大好きなお爺様。
しかし、お爺様の家には三人の知らない人がいた。
いつも楽しそうに笑っているお爺様たち。
憎らしかった。
私は誰に甘えたらいいのだろう?
誰にすがればいいのだろう?
誰が私を守ってくれるというのだろう?
誰もかもを憎んだ。
私は父と同じことをしていた。
人の運命を冷酷に笑ってかき回し、自分はなんでもないふりをした。
透にも嘘をついた。
久しぶりに会った従弟の透は、お爺様のもとで、なんて幸せに笑っているのだろう。
何がそんなに楽しいというのだろう!!
私はこんなにつらい思いをしているというのに、どうして?同じ木隠の者なのに私だけ。
離れなさいよ。
あの家にいるべき人は、私なのよ。
なのにどうして?どうしてよ。
どうして関係ない人たちまで!
――― 透、あなた殺されるわ。
本当は、私が殺してしまうかもしれない。
だから帰りなさい。
逃げなさい。私から……
空が赤く染まっていた。
葉をオレンジに染める光に気づいて、紫蘇さんは今がもう朝ではないことを知った。
さっきまでとめどなく流れていた涙はもう、とうに乾いていた。
秋乃さんが立ち上がり、紫蘇さんも一緒にゆっくりと立ち上がる。
そして、じいちゃんが歩みを進めて紫蘇さんの前に立った。
たった一言。
「すまなかった」
そう言って、紫蘇さんを抱きしめた。
紫蘇さんは、再び大きな声を上げて、泣いていた。
それからどうやって家に帰ったのだろう。
確かに自分の足で帰ったのは確かだったが、何を考えていたのか覚えていない。
何も、考えていなかったのだろう。
昨日と同じ、いい天気の朝だった。
「ふー……」
なんだか、いろいろなものを見て、感じた、そのおかげか目が覚めても体がだるかった。
まあ、いい。今日は布団から出なくても、誰も責めないだろう…。
「ふう……」
「……ん…」
「ニャー…」
ごろんと体の向きを変える。
………………。
ニャー。
「ニャー・・・…か」
ん?
ニャー?
「ニャー……」
「……」
き
「きゃぁぁぁぁぁああああ!!」
「朝っぱらから大声出して、なんなのっ!」
時子さんが階段を上がってくる音がする。
マズイマズイマズイマズイマズイ
秋乃さん!!?っていうか紫蘇さんまでいる!
俺の隣で寝てイル!
なにした!?
俺、なにした?
なにもしてない!
してないよ!!!
してないってば!!本当に!
信じて時子さん!!
「とーるくん、おはよ」
「ひぃぃぃぃ」
「…人の顔見るなり失礼な子ねぇ」
「あ、とーる、おはよーっ」
「あんずもぅぅぅぅ」
「透さん、おはようございます」
「さらさんまでぇぇぇっ」
取り乱す俺を横目に、紫蘇さんが目を覚ます。
「おはよう…ございます」
「ニャ…」
「ちがうんだよ、俺は、何も、覚えていない」
「はあ?透くん、へんなの」
「 3人ともあさごはんだよーっ」
「は……」
そうして、時子さん、さらさん、あんずは揃って階段を下りていった。
何かクスクスと笑っていたが、もしかして、俺のこと…だろうか。
「透」
「はいっ!?」
「朝ごはんだそうだ」
「はいっ」
「いくぞ」
「あ……」
「秋乃もッ。いつまでも猫でいないで!」
紫蘇さんに怒鳴られて、秋乃さんはしぶしぶ人間の姿へと身を戻した。
一階におりると、居間から良いにおいがしてきた。それはいつもの朝の光景だった。
ただ、違うのはこの家に紫蘇さんと秋乃さんがいるということ。
どうやら一日、紫蘇と秋乃をこの家に泊めてくれというじいちゃんの計らいだったらしい。
だからといって俺の部屋に三人も寝かせなくても……
紫蘇さんと秋乃さんは顔を洗ったあと、さらさんに連れられて居間に入った。
二人ともどこか緊張した面持ちで入ってくる。
俺は改めて「おはようございます」と挨拶をした。あんずとじいちゃんはにこにこしながら二人を迎えた。
そして時子さんが台所からドカドカと歩いてきて
「くじびきをはじめます」
短冊を、俺たちの前にずずっと出した。
「何の…くじびきですか?」
「こたつの配置です」
なるほど、いつもはじいちゃんとあんず、さらさん、時子さん、俺、というふうに座っているが、
二人も増えるとなるとそれも変えなければいけない。
「あの……」
「なんですか、透くん」
「ただ単に詰めてずらせばいいんじゃないですか……」
「バカやろー!」
時子さんの罵声が居間にこだまする。
「透くんは人生を楽しもうとする努力が足りないわ!いい!?
たかが席順、されど席順、それだけで気分はがらりと変わるのよ!?わかってないわねえ…子供ねえ」
(どっちが!?)
というツッコミは胸に仕舞っておくことにしよう。
俺はしぶしぶ握られた短冊の一本を引こうとした。
「 Nooooooooooo!!!!!」
「うわっ!?」
時子さんの大声に圧倒されて、手を引っ込めた。
「ななな、なんですか!?なんなんですかっ!!?」
「みんなで一斉に引くのよッ」
それを先に言って欲しい…
かくして、俺たちはそれぞれ短冊を選び、一斉に引き抜いた。
「王様だーれだ!」
ずるっ
「ちょっと時子さん」
「何よ」
「くじびきでしょう?王様ゲームなんですかこれは」
「時子ギャグよ……ケケッ、騙されおって」
「くっ……」
言いようのない悔しさに包まれた。
俺も十分子供か……
そして席順は、じいちゃん、あんずとさら、俺と秋乃さん、そして紫蘇さんと時子さん、という順番になった。
しかし、どーして、こたつの一片に二人で座るというのは狭いものがある。
いつもあんずと座っていたじいちゃんは、「いやあ、あんずがいなくなってひろいひろい」と笑いながら喜んでいるが……。
いや、それより気になるのは紫蘇さんと時子さんだった。ずっと紫蘇さんの一方的な敵意だったので、
突然喧嘩になるなんてことはないだろうが、何か不穏な空気が漂っている。
(場を和ませるために何か言った方がいいんだろうか…)
しかし、こんなときに限って脳は動いてくれない。朝が弱いということもあってか、
俺はただ並べられた食事をぼーっと見ているだけだった。
「じゃあ、まあ、食べましょうか」
そして、時子さんが手を合わせて「いただきます」と言う、その瞬間。
「すまなかったっ」
紫蘇さんが突然立ち上がり、時子に頭を下げた。
その様子に、一同は合わせていた手をそのままにして紫蘇さんを見る。もちろん、俺も。
「いままで…すまなかった……」
「……」
「わ、私は、悔しかったのだ、お爺様をとられて、なんだ……その、……とにかく度が過ぎたと今では反省……している」
「そぉねえ〜」
「でも、もう……もうそんな必要はないのだと思う。父様はひどく後悔していた。私も気づいたのだ、
ただ心の拠り所がなくて…それでどうにもならなくて・・・…」
時子さんはそんな紫蘇さんを横目に、みんなのご飯をよそっていく。
ほかほかの白米から立ち上げるにおいが、心を和ませた。
「許してくれとは いまさら…」
「はい」
「え?」
紫蘇さんの前には、程よく盛られたご飯が差し出されていた。
「食べなさいよ」
「あ、ああ……」
紫蘇さんは気が抜けたといった感じで腰を下ろし、「いただきます」と言ってお箸を持つ。
そして、ほくほくの白米を、口に運んだ。
「美味しい」
「でしょ?」
「うん」
それは、今までに見たことのない紫蘇さんの笑顔だった。
また一口、一口とご飯を口に入れていく。こんな美味しいものがあったのかと、夢中で紫蘇さんは食べた。
「これで、あんたたちも家族、ね!」
「家族……?…」
「同じ釜のメシ食ったら、みんな家族!」
「…ん……そう…なのか?」
「時子さん、家族はいきすぎじゃ…」
「いいのいいの、時子ギャグよ!」
そう言ってわはははは、と笑う時子さん。
ちょっと戸惑ってはいたが、紫蘇さんと秋乃さんも、つられて笑い出す。
やがて、俺とあんず、さらさんとじいちゃんも、一緒に笑っていた。
そして、朝食が終わった後の縁側で。
紫蘇さんと秋乃さんが興味深そうに庭の蟻塚を見ていた。
それを嬉しく思ったのか、さらさんが延々と蟻について語りだしてしまう。
「この蟻塚はですね、すごいんですよ、私もちょっとお手伝いしたんですけど」
「はあ」
「はい」
(あー…あの二人…さらさんに捕まってるよ)
俺はお気の毒に、と思ったのだが、二人はうんうん、と頷いてそのさらさんの話をじっと聞いていた。
なんだか、そんな三人がとても微笑ましくて、あたたかかった。
結局秋乃さんは、紫蘇さんの神社で一緒に巫女をしながらすごして行く、と帰り際に話してくれた。
「これで、紫蘇さんと秋乃さん、さびしくないですね」
「何をっ、私は別にさびしくはないが、秋乃が寂しがりやだから!あんなボロ庵に篭って……仕方がないから私と一緒に・・・・・・」
そう言う紫蘇さんの顔が、笑顔に変わっていく。
秋乃さんもちゃんとわかっているようで、ふふふ、と笑っていた。
「まあ、いつでも遊びに来い。うちには暇人がたくさんいるからな」
じいちゃんは腕を組んで、はははは、と笑いながら言った。
その直後、時子さんに後ろから羽交い絞めされたのはいうまでもない。
「透さん」
「はい?」
「私、父上に嫌われていませんでした」
秋乃さんが少し頬を赤くさせて言う。
「お姉さまに聞いたんです。私の名前、父上がつけてくださったんですって」
「へえ・・・・・・そうだったんですね」
「ええ」
そして、秋乃さんは笑顔で言った。
「私の名前の中に、父上がいるんです」
「え?」
「 ”秋乃”の”秋”は、父上が”楸”の文字からとって、つけてくれたんです」
「あ・・・・・・」
「だから、私・・・この名前を大事にしようと思うんです。父上がつけてくれた名前だから・・・私の中に、父上がいるから」
俺も、精一杯の笑顔で秋乃さんに笑いかける。
「はい」
そうして帰っていく二人の背中を、いつまでも俺は見送り続けた。
この手は、まだ空にははるか遠く、届かない。
だけど……
鳥が、大空に向かって鳴いていた。